
前回の「ウイズコロナ時代のホスピタリティマネジメント③」から、だいぶ間が空いてしまいました。
ここから本題であるホスピタリティの話をしたいと思います。
しかし、語源やら起源やら、今までさんざんこのブログでお伝えしてきましたので、それらはこちらでご確認ください。
というのも不親切なので、ザックリ言うと…
語源はHospes=異人歓待 更に語源を遡るとHostis=敵
訪問してきた巡礼者=共同体外から未知の(敵かもしれない)異人に対して、食事・宿泊・衣服を無償で提供し歓待するという風習
結果、戦わずにお互いの異文化・情報交流を促し互いのメリットを形成し、
WIN-WINの関係を作ることができた
というのが起源でした。
問題は何故敵かもしれない相手を歓待したか?
だと思うのです。
ほとんどが巡礼者といえ、ホントに見知らぬ人に食事を提供し宿泊させたのか?
実際現代でも中々泊めないですよね
東洋大学の徳江教授は、神話や聖書の影響ではないかと推察しています。
古代ローマ時代に書かれたオヴィディウスの「変身物語」では,
神ユピテルとメルクリウスが貧しい旅人に変身して
ある村の人々がどれほど 旅人に親切かを試している箇所があります。
二人は村の何百軒という家々を訪ねて追い払われるのですが,
一軒だけ迎え入れ手厚くもてなしてくれた貧しい老夫婦がいました。
その老夫婦は,自分の食べ物も充分でない中 で,
客人になけなしのキャベツや豚の背肉などご馳走をふるまい
湯を沸かして暖をとり、色々な話をして楽しませるなど親切にもてなしたのです。
後に神々がとった対応は
宿泊を断った者たちが住む村を、大洪水で流してしまいました。
しかし、その老夫婦の家だけは流されず残っており、
みすぼらしかったその家は、黄金の屋根に大理石の床という神殿に変わっていたのです。
という風に
ホスピタリティ対応をしたものには大きな幸福を与えて、
そうでないものは神の怒りを買うという神話が多くみられます。
一方聖書でも、ホスピタリティな義務を果たすことが最重要と書かれているものが多いです。
例えば、旧約聖書 創世記18章1~8節
18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、私のもとを通り過ぎないでください。
18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。
せっかく、私の所の近くをお通りになったのですから。」
その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。
そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
という風に、旅人を接遇するのが最も大切な行為である、
と主張されたシーンが沢山あります。
徳江教授は「ホスピタリティは、自然と自発的に心からのおもてなしを行ったというより
聖書・神話の教えから神の祟りを恐れ、
共同体の規範によるものが大きな動機なのでは」と主張します。
私もその仮説に賛成です。
毎回お伝えしていますが、ほとんどの組織で行われている
「心をこめたおもてなしをしましょう!」と
指針のみ示すマネジメントをしてもホスピタリティは広まりません。
組織のビジョンやミッションなどの浸透による見えざる強制力=組織風土の醸成と、
それを具現化するためのスキルの習得が必要だと思うのです。