独自の視点や拘りをもった「クレイジー」な旅人を取材するTV番組、「クレイジージャーニー」がとてもお気に入りです。
その中でも衝撃を受けたのは、少数民族を撮り続ける写真家ヨシダナギさんの回です。
その写真が持つプリミティブな美しさは、人間が本来持っていて我々が忘れてしまったホンモノの美しさなのでしょう。心を撃たれます。
先週そのヨシダさんの新たな旅が放送されました。
予定していたアフリカの治安悪化で、急遽パプアニューギニアの少数民族を訪ねます。
そこでヨシダナギさんを待っていたのは、アフリカでは決して無かった歓迎の踊りや、豪華な食事の数々など、これでもかと続く「おもてなし」でした。
しかし、この「おもてなし」はその民族の儀礼的マニュアル的なもので、人間的としての関係性は深まらず、本当の交流が出来てない事にヨシダさんは気付きます。
コレを見ていて私は「あ!」と思いました。
まさに日本各地で加熱する「おもてなし」は、この状況ではありませんか?
観光客が来たら、相手が何を求めていようがいまいが、「おもてなし」の錦の御旗のもとに決まったものを無理矢理提供する。
これでは(これだけでは)ゲストの心に残ることはありません。
おもてなし活動を全否定するわけではありません。
只、それにプラスして、ゲストが求めるものに微調整する工夫は必要だと思います。
そしてその為にも、ゲストとのマニュアル会話だけではなく、(雑談レベルの)コミュニケーションが必須なのです。
*因みにヨシダさんは、状況を打開すべく行ったのは「相手と同じ格好作戦」でした。
裸になり同じ民族衣裳を着て踊ります
すると、相手の表情は一変し深い関係性を築くことが出来たのです。
すると、相手の表情は一変し深い関係性を築くことが出来たのです。
これもホスピタリティの原理の一つである、互いの差異を良いと認める「相互容認」を積極的に行うことで、双方向の人間関係ができたんですね。ホスピタリティは「主客同一」。ゲスト側のアプローチで、より高いレベルのホスピタリティが完成されるのです。ゲストが「お客様は神様です」の認識を持っている限り本当のホスピタリティを体感することは不可能なんです。
数年ぶりに支笏湖氷濤まつりに来ました。
以前より更に楽しい空間が広がってました。
友人のカヌーイスト松澤くんのお店。
残念ながら不在で会えず。